答えが見たかったら生きること

ごきげんよう!デボラと申します。

 

わたくしは中学生のときに富士通のXPを祖母に買ってもらったことがきっかけで,コンピュータを自分だけで使うようになった(小学生のころには父が会社で使っているコンピュータを自宅に持ってきたけれどもインターネットには繋がっていなかった)。

自分のコンピュータを手に入れてからは,htmlでなんとか体裁を整えたサイトの真似事をしたり,丁度サービスが始まったはてなダイアリーを利用して日記を書いたり,とインターネットの世界の大海原に浅く浸かっていたように思う。

気がついたら,あの平成という,わたくしの住む日本が何を生み出したか良くわからない時代をジャンプして令和の世界に移行した。

あのときXPでカタカタと自宅の和室でタイピングをしながら日記を書いていたわたくしは,今,手に収まるiPhoneSE2を使いながら都内某所でこの日記を書いている。

いつでも,どこでも,日記を書くだなんて中学生のころのわたくしには想像だにしなかった未来だと思う。

 

 

今日は,朝起きたとたんに悪寒が走って嫌な予感。
少し,勇み足で過ごしていたことが原因だろう。

そういえば,わたくしはしょっちゅう物を無くすのだが(わたくしの弱点その1),
まさかのオシャレ用のマスクが消えてしまった。
大切なのに。

東急ハンズあたりで買いに行こうかなあ。
そうなると,色々と欲しいものが見つかるだろうな,等考えてしまう。
貯金中なので,自粛している昨今。
蒐集癖で欲求が動かされられるわたしとしては,東京の街の欲望が降り注ぐ空間に出掛けるなんて避けたいところ。


人間は,何か物をなくしたときに「あ,なくしちゃった。」という感覚を覚える。
物をなくしたときにそう感じる心情は当たり前の感覚なのだろうけれど,


本当になくした「何か」はなかなか思い出せない。



ふと,昔のことを思い出した。
ある,3つの絵画に出会ったときのことを。




無限の分割可能性


Raymond Georges Yves Tanguy,Divisibilité indéfinie,1942*1

邦訳 「無限の分割可能性」1942年,イヴ・タンギー

これからわたしはどうなってしまうのだろう。
わたしは、どこへ向かって生きているのだろう。
タンギーの絵を見ると,このような様々な思いが生まれてくる。
これらの思いは,いくら絵を見ても答えが見つからない。
まるで,終わりのない迷路を歩いているように。

タンギーの絵は,一言で言うと,訳の分からない,不思議な絵である。
確かに,本作品では,石のような,しかし人間の顔であるような物体が数多く描かれていて,一つ一つのモチーフを見ると,実に無機的で,とても現実世界とは思えない。
しかし,全体を見てみると,驚くほどに有機的なのである。
まるで,一つ一つのモチーフが生きているように。
それらが落とす影がなんとも不気味ではあるが,その影はゆらりと動き出しそうなくらい力強く,絵の中で存在感を誇っている。
そして,影を動かすような,思わず目をつぶってしまいたくなる。
絵を描くことによって,キャンバスの中の時間を止めているはずなのに,タンギーの絵は,今にも動き出しそうである。

わたしはこの異世界ともいえる絵を見て,現実世界における孤独や悲しみを感じた。
この感覚は,ちょうど中学1年生のときに出会った,次の詩を鑑賞した感覚とにている。
「かなしみ/あの青い空の波の音が聞こえるあたりに/何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい/透明な過去の駅で/遺失物係の前に立ったら/僕は余計に悲しくなってしまった」(谷川俊太郎,詩集『二十億光年の孤独』,1988年)。

タンギーの絵も,谷川の詩も,わたしの心に強く訴えてくる何かがある。
恐らく,タンギーの絵に関しては,わたしが小学校低学年くらいのときに出会っていたら,その目の前の作品に対して気持ち悪さしか感じなかっただろう。
きっと,それは精神的に成長したり,社会経験を積まなければ手に入れられない感覚であろうから。

 

わたしが小学校低学年のときは,ただ毎日が楽しかった。
孤独や寂しさ,悲しさを感じることは無いに等しかった。
毎日,人に囲まれて人生を楽しんでいた。
起床すれば両親や祖父母等に挨拶をし,一日が始まった。
本を読んだり,歌を歌ったり,ラジオを聞いたり,散歩をしたりと思い思いに過ごしていた。
わたしは,自分の未来に希望を見出していたし,明日には明るい未来が待っていると信じていた。

 

しかし,そんな生活や考えはいつのまにかに変わってしまった。
決定的だったのは,女子高生の頃,丁度16歳のときにNGOの試験に奨学生として受かった経緯にて短期ホームステイで渡米し,とあるテストで好成績を残したことに起因している(世界ランクレベルの実力であった)。
詳細は割愛するが,契約期間が終わって日本に戻ってきたら,




そこにはわたしの居場所はなかった。




表現すれば身も蓋もないようなことだから,敢えてその理由は書かない。

いつか,表現できる時期がきたら,そのときのために取っておこうと思う。

 

わたしは特に,タンギーの絵の石のようなモチーフに強く惹きつけられる。
これらを見ると,自分は結局,何もなれないのではないか,という思いに駆られてしまう。
この訳のわからない物体が,何もなれない自分と思なってしまうのである。

タンギーはもとは船乗りであったが,キリコの絵を見て触発され,絵描きに転向することになる。




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Giorgio de Chirico,Mistero e melanconia di unastrada,1914*2
邦訳 「街の神秘と憂愁」1942年,ジョルジョ・デ・キリコ

タンギーと同じように,キリコの絵を見ると心の中に様々な思いが駆け巡る。
キリコの作品には,アーチのある建物,影法師など,様々なモチーフであふれている。
アーチのある建物は,キリコの父が鉄道に勤めていたことから多く描かれたのだと言われているようだ。

キリコの作品を見て,不安に駆られる思いをせずにはいられない人はどれくらいいるだろうか。
わたしは,そのうちの一人である。

特に最近,本作品を見たときは衝撃が走った。
何故なら,就学前の画集で鑑賞したときは,なんとも思わなかったのに,
少し前に見たときには心の底から不安が沸き起こってくるからである。
幼い時の無邪気な目は,成長すると人生の本質を考える鋭い目となり,そして……

 

キリコの絵は静かな絵である。
「街の神秘と憂愁」には,人の影があるはずなのに,その影からは全くといっていいほど人の存在を感じさせない。
キリコの絵の中には,動きがない。
まるで,絵の中にある不安が,時を止めてしまったのかのようである。
絵の中には,ただならぬ奇妙さと不安がぐるぐると渦巻いている。
「街の神秘と憂愁」における奇妙さと不安は,消失点を3点にすることによって作り出されているようだ。
そしてその不安は,死への不安へと繋がっていく。

 

わたしは物心ついたときから,死について考えてきた。
それは自殺したいという欲求からではなく,ただ単に,死にたくないと思っていたから。
例えば,病気で死ねば死ぬ直前は痛くて辛くて苦しくて大変な思いをするだろうし,不慮の事故で死ねな,痛さに加えて後悔が残るだろうと考えていた。
それに「善人は天国」い行き,「悪人は地獄」に落ちるということ信じていた。
なんとなく,わたしは地獄に落ちてしまうかもしれない,と恐怖していた時期もあった。
きっと,ほとんどの人が死を厭うのである。
人間は他人の死,とくに肉親の死を見ることによって,自己の死を考えるようになるのだと思う。
死んでしまえば,何も無くなる。
しかし,どんなに死について思考しても,実際に死を経験するときには死んでいるのであるから,
死んだらどうなるのだろうということは誰にも分からない。
それなのに,多くの人間がわたしと同じように死を厭い,恐れるということが不思議でたまらない。
恐らく,生きていく上で親しい人の死を経験したりすることで,死に対する恐怖が植えつけられるのだろう。
死んだら,何もなくなる。
もしかしたら,天国に行けるかもしれないし,地獄に落ちるかもしれない。
ただ,生きていたときに所有していた肉体・精神・財産は存在しない。
無所有の所有が,死への恐れの根源の一つなのかもしれない。

だからこそ,出来るだけ長く生きられるように,現代まで医療は発達したのであろう。
人間という存在は,母体の中で精子卵子が受精した瞬間に「生命」が始まるとともに,死へのカウントダウンが始まってしまう。
人間は生まれたその瞬間から,死ぬことが必然である存在へとなる。
これは,たとえ現代の進歩した科学によってでも変わることはない。
割愛するが,わたしはたとて人間は必ず死ぬ存在であっても,生きる意味は必ずあると考えている。
何故なら,死があるからこそ,人間は今を一生懸命生きられるからである。



File:Mattia Preti - Santa Veronica con il velo.jpg

 



Mattia Preti,Saint Veronica with the Veil,c.1655/60*3

邦訳 「聖ベロニカ」1655年,マッティア・プレーティー

死を思い起こさせる,という点で類似している点で,わたしの心が揺さぶられたのはプレーティーの本作品である。

絵を見る者をじっと見る聖女の絵。
なんだか薄気味悪い色遣いの絵だと感じる。
聖女はただ,無表情でこちらを見ている。
まるで,絵を見る者の心の中を見透かしているようにも思える。
そう考えてみると,なんだか背筋がぞっとする。
聖女は,わたしの何をみているのだろう。
恐らく,聖女ということで,見ているものは人間そのものではなくて,人間の背負っている「罪」なのだろう。
だから聖女に見られるということだけで,わたしはこんなに身の震えるような思いをするのである。
今まで生きてきた中で,罪を犯してきたことを自分自身で認識しているから余計なのだろう。
そして,わたしは罪深いのだから,死んだら地獄に落ちてしまうのではないかと身震いしてしまったのだろう。
そのあまりの揺さぶりに,どうか天国に行かせてくださいと,神に祈りたくなる。
聖女に凝視されることで,自分の死を想像してしまう。
絵の中の聖女が話すならば,きっとこんなことを話すかもしれない。
あなたは罪深いから,死んでも浄化されないわよ,そして地獄行きよ,と。

わたしはプレーティーの絵を見て,ある一つの事実を発見した。
それは,たとえ神の存在を信じない者であっても,自分自身に内なる神を持っているのではないかということである。
わたしは先述したとおり,聖女に見られた時に,どうか天国に行かせてください,と見えない神に祈った。
わたしは神という存在が見えないのにも関わらず,自然に祈るという行為をした。

そういえば,わたしの祖父が,癌で余命数日だという急な知らせを聞いたときにも,無意識に神に祈った。
祖父を生かせてください,と。
結局あの祈りは神に届かなかったのだけれど,今思えば,それは無意識のうちに神の存在を信じたということになる。

 

思えば,人間は,生・老・死などという,自分の力ではいかんともしない出来事に遭遇したときに,神に祈るのだと思う。
わたし自身,生まれるときに母はわたしが五体満足で生まれるように,と祈ったと言っている。
生みの苦しみの中で,老いる苦しみの中で,そして最後の臨終の苦しみの中で祈ることは,古代から続く人間の本当の在り方なのだと思う。
そして,神に祈ることで,その存在を信じていても,信じていなくても,安堵するのだと思う。
「わたし」が祈るということは「神」という第3者が,いっときでも「わたし」に寄り添うのだから。

 

以上でタンギー、キリコそしてプレーティーという3人の画家について,自分の内面と照らし合わせながら考察してみたが,彼らの絵には幾つかの共通点があることがわかった。

 

それは,いくらか精神が成熟していなければ,これらの絵については理解できない,ということだけである。
そして,見えないものを,見えるものを通して表現している点において共通している。
これが本来の芸術の姿といえるだろう。
だからこそ,わたしがそれぞれの絵を見たときには,こんなにも心が動かされたのだ。

特にプレーティーの絵の場合は,聖女の目を通して,神の存在というものを絵を見る者に伝えようとしたということが窺えるだろう。
それに対してキリコやタンギーの絵は,それぞれが人間の暗い部分,つまり,前者は孤独が悲しさ,後者は不安を髣髴とさせる。
これは当たり前のことではあるが,何を表現するのかという点で,3人は異なっている。


タンギー,キリコそしてプレーティーの絵は,人間の無意識に強く訴え,問を発することによってわたしたちを感激させてくれているのだ。
3人の絵は,これからも生きつづけ,後世の人間を深い問へと誘うだろう。



もっとも,広がり続ける宇宙から見たら,人間の限りある一生のうちに浮かんだ問は,大したことではないものかもしれない。

 

もしかしたら,宇宙の根源である神から見たら,人間を取り巻く宇宙のことも,些末な存在なのかもしれない。

 

わたしたちが空を見つめるとき,宇宙や神の存在を想うのと同時に,彼らもわたしたちを見つめているのであろう。

 

相思相愛だったらいいのではあるが,それは,生きている内には決してわかる問題ではないだろう。

いつか最後を迎えるときに渡される,人生を精一杯,力を尽くして生きた人間だけに贈られる答えなのかもしれない。


そしてわたしは,今日も力を尽くし,精神を尽くして自分の人生を歩むのである。



いつか,人生のページが書ききれなくなる,そのときまで。

 

www.musey.net

*1 より画像引用

*2:

【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「通りの神秘と憂愁」 - Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典・データベース

 より画像引用

*3:https://it.wikipedia.org/wiki/File:Mattia_Preti_-_Santa_Veronica_con_il_velo.jpgより画像引用