あの子は無くなった

小学校1年生のゆりぐみで一緒だったわたくしの親友は、毎日病気と戦っている。
難しい病名を3つももっている。親友は、7年前の夏休みも、入院することになった。
心臓のバイパス手術という,なんだかおどろおどろしい手術が成功して,そして,また,再手術をしたそうだ。
彼女の身体の中は,目には見えなくても,病魔は確実に進行しているんだ。



夏休みに入院するから,どこにも遊びに行けなくてごめんね,と親友は言う。
けれども,わたくしは唯一の親友とどこにも遊びに行かれなくて不幸だなんて思わない。
何故なら,一番苦しいのは,いつも笑っている親友だから。



わたくしは小学生のその頃,医師になりたいって強く思った。研究者もいいかもしれないとも思った。
親友の病気を治してあげたいという気持ちと,親友のように,苦しんでいる人やその家族,大勢の人を救いたいという気持ちがあるから。
 
 
幼稚園から修道女たちが言っている。
 
「人に絶対はないのです。あるとすれば人間には,いつか終着点が訪れるってことだけなのです。イエス様が天にあげられたように,人間もやがて死に葬られ,そして、、、」
 
 
幼稚園から高校までうんざりするほど聞いたことば。
わたくしはそうならば,人間が迎えるその最期まで「電池の充電が切れるまで」の時間を,安らかでより長くより充実したものにしてあげたい……と心からそう思っんだ。



親友は,良く,笑顔で言っていた。「わたくしね,可愛くて高価な花よりも、生まれ故郷にあるような野に咲く小さな花になりたいんだ。何度踏まれたって,蹴られたって,また立ち上がる。そんなたんぽぽのようになりたい。」って。
それは,わたくしが今まで全然気付かなかったことだ。
 
-そうだね。たんぽぽは、踏まれても,蹴られても,くよくよくじけたりしない。また立ち上がる。どこにでもある花なんだよ,けれどもすごい花なんだよ。そして、一生を終えたたんぽぽの花は、たくさんの種を蒔く。-
 
 
今まで,気にも留めなかったものが,どんどん色鮮やかにみえる。
わたくしの世界は、ずいぶん狭かったんだなぁ……と思う。



親友は,しばらくして学校に来なくなった。
電話をして,学校に来られなくて,心臓も痛くて辛くないの。とわたくしが尋ねると,決まっていつもこう答える。
 
 
でも,まだ,生きてる.。
って。
 
 
 
そうだ。いろんなものが色鮮やかに見えるのも,生きているから。
楽しいのも,おもしろいのも,笑っちゃうのも,悲しいことすら,生きているから。
全部,ぜんぶ生きているからなんだ。
生きているから,感じられること。
 
 
今まではずっと不思議だった。
 
親友は,何万人に1人の病気と闘っているのに,どうして笑っていられるのだろう。って。でも、きっとその答えも、生きているからーーだと思った。

 

 

 

 

踏まれたって,蹴られたって,何度だって立ち上がる。

 

 

 

それがわたくしの親友,Yちゃん。

 

何度も何度も思い出す,あの夏のことば。

 

Yちゃん,次に会うときは天国で。

聖ペトロがわたくしに天国の門を開けて下さらなかったら,こっそり合いカギを渡してね。

 

 

マルコによる福音書 4章26-34節 (そのとき、イエスは人々に言われた。)「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された十